スポーツが好きなわけ
スポーツが好きな理由は、そこに参加者が共有するルールがあることだ。
審判は必ず存在し、たまには間違いがあり、競技の勝敗や優劣を左右してしまうこともあるが、基本的にはルールに従った競技が行われる。
目指すは勝利であり、頂点であり、参加者はすべてそれを決められたルールの下に競い合うのだ。
アーチェリーをしていたのは、以前にも書いたが誰のせいでもなく得点が決まっていくという実に単純なルールの競技で自分を試してみたかったということがある。以前は違う動機を書いたけどね。
なので審判に過大な権限がある競技はもうひとつ共感できない。たとえば「美しさ」という非常に主観的な部分の優劣を判定することにはちょっと抵抗がある。
ルールということにおいては、スポーツ競技以外の世界では存在しない場合が多い。
多くの場合立場の優劣、政治力、感情、表現力、交渉力などによって物事が進んでいく。
法律というものだって守られないことも多いし、それが国と国の話になればもはや形を変えた喧嘩や言い合いでしかない。
スポーツに惹かれるのは、目標が純粋で結果が誰の目にも明らかである場合が多いからだ。(「多い」というのは「すべて」ではないこともあるみたいだということが分かってきているので。)
「勝利」はすべてではない。
それを目標に設定し、それに向かって努力し、ルールに従って競技し、人として成長していくことにこそ意味があると思っている。
アーチェリーという競技を通し、人として成長することができた。
社会に出てからの成長のほうが大きいという人も多いと思う。
でも、政治力や根回しや交渉力や人の使い方や言葉の選び方やずるさやそんなものよりも大事なものをスポーツは身につけさせてくれるはずだ。
もちろん人によってはスポーツじゃないと思うけどね。
でもそういうものって必要じゃないだろうか。
スポーツは肉体の競技だ。やっぱり己の肉体を使って努力の成果を発揮する(時には発揮できない)、そして結果をばねに次への飛躍を心に期す。
そんなスポーツの世界って、いいんじゃないのかな。
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